邸の系譜に、新たな名をつづる。

武蔵野台地の東端に位置する港区は、江戸時代、寺社と武家屋敷が連なる街に発展しました。
幕末には、日本の歴史を変える様々な出来事の舞台となり、明治以降も現在に至るまで政治経済、生活文化の中心地であり続けています。
かつての江戸時代のお屋敷の面影は残念ながら消えてしまいましたが、
形を変えて由緒ある地に新たなる時代の到来を告げる邸宅「カテリーナ三田 タワースイート」が誕生しました。

諸般のお屋敷が建並んでいた芝、三田界隈

港区の歴史は、位皿子貝塚遺跡など縄文時代の遺跡にはじまります。出土品や遺構は人々が東京湾から豊富な海産物を採集し、陽当たりのよい大地に暮らしていたことを伝えています。永享6年(1434年)の古文書には「芝原」の文字があり、文明12年(1480年)太田道灌が京都に向かう歌日記という「平安紀行」には「芝という処を過ぎるとて」の詩書が見られます。その後、徳川家康の江戸城拡張により多くの寺社が坂や谷地に移されやがて周囲は市街地化されていきます。天保14年(1843年)に作られた御江戸大絵図によると、江戸時代の陸地は現在のJR線のあたりまでしかなく、徳川家の菩提寺である増上寺の南側、芝、三田周辺は有力大名のひときわ大きな屋敷が軒をつらねていたことがわかります。

ここから始まった、新しい時代の幕開け

幕末期、港区周辺は大きな歴史の流れの渦中にありました。慶応3年(1867年)戊辰戦争の端緒となった薩摩屋敷焼き討ち事件の翌年、西郷隆盛と勝海舟による江戸無血開城の会見が薩摩藩蔵屋敷跡で行われ、江戸市街は戦火を免れました。また、その頃中津藩士、福沢諭吉は藩命により開いた蘭学塾を芝新銭座に移転し慶應義塾と命名。上野の彰義隊の戦いで市中が騒然となっても講義を休まなかったエピソードはよく知られています。三田の現在地に移ったのは明治4年(1871年)。重要な行事に使用される三田演説館は明治8年に建てられ、重要文化財に指定されています。また明治5年には新橋横浜間を鉄道が開通。田町駅は明治42年に烏森駅(現新橋駅)や浜松町とともに開業。その名は江戸時代芝田町と呼ばれていたところから名づけられています。

慶応4年(1868年)3月14日、江戸城へ攻め上がる官軍の西郷隆盛と幕府側の勝海舟によって江戸開城、将軍徳川慶喜の除名などが話し合われ、翌日に迫っていた江戸城攻撃を回避し、市街は戦火から逃れることになりました。幕末の動乱を終息に向かわせたターニングポイントとなった会見が行われた薩摩藩蔵屋敷跡には、現在記念碑が残されています。

勝・西郷会見の地跡
PAGE TOP